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◎今更ながらに国立戒壇の義が宗門古来の伝統と戯れ言を仰せですが、妙信講時代に達師の面前に於いて創価学会と今後においても、国立戒壇の論争を続けるとの誓約書を一方的に破棄し、国立戒壇論争から逃げたのは誰でしょうか?

「今後は、国立戒壇という名称を使用しないことにする」と達師が昭和四十五年五月三日に発せられたに関わらず、浅井およびその一派はその時は黙止して、二年後の昭和四十七年二月になって異義訂正を求めるとするなどは、論外の行為であります。コレを正当化する論と史料があるならば述べていただきたいですね。

◎更に昭和四十九年、五月二十四日の創価学会副会長(当時)秋谷氏との国立戒壇義の継続討議のその場に於いて「もう是で話し合いは終わりだ、我々は我々の信ずるままに行動を起こす」と一方的に話し合いを打ち切り、「理不尽と言われようと真義に悖ると言われようと、かまわない。もはやこれまでだ」と学会側の発言にも耳を貸さず、退室しています。「真義に悖ると言われようと、かまわない」と論争放棄しながら、まだ国立戒壇を唱える顕正会こそ正義という根拠をお示し下さい。


以上、国立戒壇義、団体破門無効訴訟の和解等、全て放棄してきたのは他ならぬ浅井氏自身である。いまは自身の会存続のための経営観に沿った書籍購入や広布御供養を、会員に迫る経済活動をされているようですが、浅井会長を初めとして、顕正会経営に従事しているものはその生活を会員の喜捨によって賄っているものと思われます。

仏典・日蔵経には「彼の有する受用資倶を侵奪して、或いは自ら受用し、或いは他人に与うるに由る。是の因縁に由って彼れ命終し終わって当に阿鼻大地獄に堕すべし」と書かれている。施者の三宝供養の志を我が身に奪う失によって阿鼻大城に墜ちると説かれているのですね。また「他の為に説授し、其の財を貿取し、無義利と為すは、是れ菩薩の魔事なり(宝集部五巻)」とあって、勝手な法門を説いて財を受ける諸々の行為は、菩薩の名前を借りた魔事と説かれています。およそ宗祖の仏教に於いて在家が施を受ける資格を肯定する御妙判は寡聞にしてか、私は知らない。是非とも宗祖の御妙判からそれも提示証明を願う物であります。

以上、ブリトー石橋氏の誠意有る反論をお持ち申し上げます

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後半二番目のブリトー石橋氏の反論:「六、重ねて猊下の御本意を拝し奉る――されば、紛わしき『事』と『義』の会通よりも、(注:以下、長いので割愛)


いろいろと書いていますが、事と義の戒壇義は日顕上人が浅井氏の浅識を破された箇所を上げてあるので、それを読んでいただいてから反論願いたい。チャンとした寛尊の六大義、事と義の戒壇論は、此の人も理解していませんね。

それと「所性の法体の『事』に約した『事の戒壇』」という箇所ですが、まず、所性という言葉ではないですね、正しくは所住でしょう。これは安置するという意味ですが、法体を安置するところ、つまり戒壇の御本尊様のあるところを”所住の法体の事に約した事の戒壇” でないと意味が通りませんね。ブリトー石橋氏、所性という言葉では、この文章は理解できませんよ、まぁ浅井センセーの受け売りだからしょうがないね。性なる所では、法性なのか、何の性なのか一連の事の戒壇論に意味が通りません。これを指摘しておきます

さて話を戻しまして、この浅井氏の文言を以て「本宗(富士門流)の伝統法義の「事の戒壇」といえば、三大秘法開合の相にある「広布の暁に建てられる“事”(事相)の戒壇」を指します。広布以前に戒壇の大御本尊在す所を「事の戒壇」とは絶対に言えないのです。」と書いてますが、こちらの御歴代、特に戦後上人以前のお言葉を読んでみて下さい。これはその浅井が解釈理解を間違ったんですから話になりません。
そして、浅井氏の言うように古来の伝統法義というでしたら興尊の法義書の中からその事と義に当たる箇所を掲示してみてください。この箇所も文字の読み間違いもありましたし、興尊の法義書からその事と義に当たる箇所の提出を待ちましょう。

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ブリトー石橋氏反論:「7番目の、「管長猊下は一言も正本堂を御遺命の『事の戒壇』などとは云われずもっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物」という文章は、「試練と忍従の歴史」(53ページ)からの引用です。」

これは上記(六番目の反論)の部分と同じですね。割愛します。
後半一番目のブリトー石橋氏の反論:「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」という諫暁書は、猊下の立場を守りつつ、誑惑の元凶である学会(池田)を諫めるのが目的ですから、浅井先生は、ここではあえて、第一回正本堂建設委員会の曖昧な説法を、「正本堂は事の戒壇」とか「御遺命達成」とか、そういう意味ではありませんと会通されたのです。」


ここまで来ると、ブリトー石橋氏の反論も無理が出ていますね。これは真正面から反論していません。恐らく達師の文言を使っているので浅井の論ではないと言いたいんだと思いますが、それを使って諫言している以上、同意していることは事実ですので、自論の正当を主張するために傍証として引いたわけですから、それは自論に等しいと見なされても仕方有りません。

ここでも曖昧という言葉が頻繁に出てくるので、貴殿の言う曖昧に当たる浅井の過去の発言を引いておきます。

◎「昭和四十年の御供養趣意書の当時は、まだ誑惑が顕著でなく、少なくとも管長猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは言わず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調された故に御供養に参加したのだ(取意)」(冨士・昭和61年8月号53ページ)

◎昭和52年8月には逆に、「昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において日達上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされた」(富士・昭和52年8月号6ページ)


曖昧ですね、矛盾ですねぇ。発言は昭和五十二年では「正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされた」と言っているのに、昭和六十一年は「猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは言わず」と発言してますね。解散通告三年後の発言と十余年を経た発言が真逆というのも珍しいですね。これも浅井氏独特の(頭破作)八分論法、この裁定は閲覧者にお任せ致します。

貴殿はここでは「第一回正本堂建設委員会の曖昧な説法を、「正本堂は事の戒壇」とか「御遺命達成」とか、そういう意味ではありませんと会通されたのです。」と言ってますが、貴殿のセンセーはこれらの矛盾的発言をどういう意味で言われたのか、是非会長センセーに問いただされ、その報告を楽しみに致します。
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ブリトー石橋氏の反論:「6番目には有名な「訓諭」が登場します。」

「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む…」ということですから、細井日達は学会の圧力に屈し、正本堂は御遺命の戒壇だとほとんど認めてしまったようなものです。」



達師の文章をよく読んでいただきたい「即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂」とあります。たるべきとは未来にかかった言葉であります。つまり現時は違うという文意です。それを貴殿は「正本堂は御遺命の戒壇だとほとんど認めてまった」と反論していますが、これは読解力の問題であり、五番目の経緯を熟読されれば、宗門・達師の意図がどこにあったかは自ずと理解できます。

「而しながら有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕したならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります。」(御虫払会における御説法・昭和四十五年四月六日)

ここに「未来の大理想」というお言葉があります、この文と「即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂」は達師の正本堂の意義に対する同じ意思・考えが伺えるのであります。この項目も貴殿の反論は確たる証拠に基づかぬ反論であります
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四番目の反論は「4番目は、昭和四十五年四月六日の御虫払法要における細井日達の説法です。この説法は、この御虫払法要の三日前、対面所にて、やはり浅井先生に諫められた結果細井日達が述べた“正論”です。もし浅井先生の諫めがなければ、細井日達には、この“正論”は言えなかったでしょう。」ですが上記と同様の事ですので省きます。
ブリトー石橋氏反論:「5番目には、「達師が『正本堂は未だ御遺命の戒壇ではない。……どうか学会は訂正してください』」と書いてあります。これは昭和四十五年五月二十九日、対面所で、浅井先生と学会首脳が法論を行い、学会首脳の負けが決定的になった時の細井日達の発言です。」


ブリトー石橋氏は「学会首脳の負け」と断定して書いてますが、この時の双方の対論主意は

◎正本堂は御遺命の戒壇である
◎広宣流布の達成


でありました。それに対し昭和四十五年五月二十九日、本山対面所にて学会側代表と妙信講代表、達師面前で正本堂の意義について対論したものであって達師が「正本堂は未だ御遺命の戒壇ではない。未だ広宣流布はしていない。どうか学会は訂正をして下さい」と述べられ学会側に聖教新聞等の言論的事実の訂正を促されたものです。

しかし、対論はこれで終了ではなく、再度、再再度と行われています。
昭和四十五年六月十一日、再度の両団体の対論が本山対面所にてありました。貴殿の言うように五月二十五日で負けが決定した物を六月十一日に敗者復活するような手合いの論争ではありませんね。

この日に学会側が「先日の猊下の仰せを守り、今後学会は”正本堂は御遺命の戒壇””広布は既に達成”とは言いません。あらゆる出版物からこの意の文言を削除し、今後の聖教新聞の記事においては必ず私達がチェックします」と言上。(資料:御遺命守護の戦いより)妙信講側は誓約書面を求めたが、学会側が拒否。しかし、国立戒壇義の論争は定期的に続けられる事が約束された。この後も、宗務院立ち会いの下、両団体の討議の折衝が続けられた事実はシカトですか。そして六月十一日のこの際に達師のこういう弁がありますね。

達師「浅井さんこれでいいでしょう、とにかく宗門でいちばん大きいのと、いちばん強いのがケンカしたのでは、私が困ってしまう。これからは仲よくやって下さい」
つまり、この時点では勝敗も何も、まだどっちつかずの状態であった事が、この御発言から伺う事ができますね。

ブリトー石橋氏の「法論で、学会側が負けたから言えた“正論”なのです。恐れ多い言い方ですが、仮に先生が法論に負けていたら、細井日達はこの“正論”は言えなかったでしょう。いや、言えないどころか、逆に学会の意見に賛同して「正本堂は御遺命の戒壇です」と言ったかもしれません。」との指摘は、学会側と妙信講が、この後も対論を続けていたこと、そして一連の結論として昭和四十五年九月十一日に報告書が作成され、達師に書面報告された事。

つまりブリトー石橋氏はこうした時間軸と事実を曲げて証拠立てしていますね。負けていて、達師が其れを裁定されれば、そこで終了ではないですか。しかし、その後も論議は続いています。それではこの事実はいかがされますか。

☆昭和四十五年九月十一日、法道院において、早瀬総監・阿部教学部長・藤本庶務部長立ち会いの下、”正本堂を御遺命の戒壇と言わぬ”旨の確認書を両代表が署名、達師に総監がご報告として納める。


報告書内容は「正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時に於いて断定しない」(法廷資料として後に提出される)その書面内容は以下であります。
報告書

◎お互い信者の間で話し合いの結果誤解がとけ相互に友好的な理解と合意に達したので御報告申し上げます
一、正本堂は三大秘法抄一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは現時において断定はしないこゝに猊下の御宸襟を悩まし奉ったことを深くお詫び申し上げるとともに今後異体同心にして広宣流布達成をめざして邁進することをお誓い申し上げます

(和泉覚・森田一哉・秋谷栄之助|浅井甚兵衛・浅井昭衞:報告書:昭和四十五年九月十一日)


この報告書面では勝ちだの負けだのよりも、「お互い信者の間で話し合いの結果誤解がとけ相互に友好的な理解と合意に達した」と誓約されてますね。しかも「今後異体同心にして広宣流布達成をめざして邁進する」との文章も見えます。この事に触れずに浅井氏が、後に妙信講員に発言した内容は理解できなくなります。浅井氏は本山でこう発言しました

◎昭和四十五年十月二十五日、妙信講二千有余名総登山で大講堂に於いて「講中の命運を賭しての御奉公、遂に九月十一日を以て決着」しかも「誑惑与同の宗務当局が立ち会って猊下に納め奉り、ここに誑惑訂正の全宗門的合意形成なる」と講員に説明しています、この文書存在は両団体の約束により、公にはされなかった、となっていますから貴殿が述べるような 「細井日達はこの“正論”は言えなかったでしょう。いや、言えないどころか、逆に学会の意見に賛同して「正本堂は御遺命の戒壇です」と言ったかもしれません。」この貴殿のもし、だったら、こそ事実歪曲の推論ではないですか。

以上、事実経過で見ても貴殿の反論は既に破綻しています。ブリトー石橋氏の「浅井先生と学会の法論の部分には一切触れず、細井日達の“正論”だけを見せるというやり方は、やはり一種の切り文・文意の歪曲といえるでしょう。」は当方の文章に対する、当たらぬ貴殿の邪推であることを指摘します。その後の討論の続きや決着宣言を無視する論法はいささか事実の歪曲の度を過ぎてはいませんか?


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