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ガツンと破す、を破す。それを破す(1)


ガツンと破す、を破す。それを破す(^◇^)

個人ブログにてブリトー石橋氏という人が「ガツンと破す」を破す、というタイトルで当方の破折文を掲出されていることを知りました。なかなか顕正会員には有りえない事なので、楽しみにして見せていただきました。

すこし期待したのですが、残念ながらこのブリトー石橋氏も多くの顕正会員のご多分に漏れず、教条的な浅井シンパであるようで、相も変わらず自身自らの研鑽より浅井教学の追随者であり、浅井氏が述べた言の域を出ぬ人のようであります。浅井氏の言葉を金科玉条の如く法典まがいに崇めておられるようでありますね。まぁ、それはともかく一月二十二日に当方に向けられたブリトー石橋氏の「国立戒壇義について」への反論を最初に致します。

イロイロとアタマ部分で述べておられるのでありますが、国立戒壇については既に「ガツンで」述べている部分がありますので、こまかな解釈や枝葉末節にこだわるより、大まかな部分とこちらへの質問を引っ張ってきました。

ブリトー石橋氏の反論:反詰する。もし「模倣」というならば、同じく「国立戒壇」の名称をお使いになった本宗の歴代先師上人を、なぜ「田中の模倣」と非難しないのか。また学会の戸田会長そして曽ての池田大作をなぜ「模倣」と批判しないのか。


浅井氏の言う諫言と称する一連の文章のコピペですね。まず、明らかにしておきたいのは浅井氏が執拗に固執する「国立戒壇」なる名詞は本宗にとって、上古に見る根本的法義ではない、ということです。。それは浅井氏も度々の達師との面談の機会に於いて、何度も諭されている事実でありますね。本宗はあくまでも三大秘法の本門の本尊を一大秘法と建て、そこに戒壇義と題目を具す事が本来であります。三大秘法を六大へと展開された寛尊の六巻抄にも、国立戒壇なる個別名称はありません。また大正期の日柱上人を含む以前に溯る御歴代にもこの言葉は見あたりません。

ブリトー石橋さんも顕正会の常套句、国立戒壇の名詞のみクローズアップをして、それを本宗の願業・御遺命と位置づけられています。さて、国立戒壇は先ほども述べましたように上古の宗祖も開山上人の著作物にも仰せではありません。この名称確認は顕正会が妙信講と言った時代から延々と繰り返されてきた論争のひとつです。既に貴殿も御存知のはずでありましょう。で、もしブリトーサンが違うとするならば、まずもってその文証提示が先でありましょう。

当宗でかつて戦中・戦後の一時期歴代上人が「国立戒壇」の語句を使用したことをあげて、さも正義はコチラにありとの論を述べてますが、貴殿の指摘する歴代上人は国立戒壇なる名称を随宜方便としてご使用されただけであります。当編集班では既にその時期に「一般流通している語句を云々」と書いております。国立戒壇の名称価値はそれ以上で無いことは明らかであります。

これだけであれば、貴殿はまた歴代の文や往時の創価学会の国立戒壇を記載した文章を以て非難するであろうでしょうから、仏教における語句使用の活用例として以下を提示しましょう。

宗祖の御妙判には「浄土」という言う言葉が御在世の信者にあてられたお手紙の中に度々見えます。この浄土という言葉、宗祖の御代に限らず溯ること平安仏教の時代から浄土の名詞は、阿弥陀仏(アミターバ=無量光仏・アミターユス=無量寿仏)の極楽浄土を指すことが、時を経た今でも一般的であります。

八万法蔵と言われる経典中の阿弥陀経という浄土宗の経典にも釈尊は「シャーリプトラ(舎利佛)よ、〈幸あるところ・浄土〉という世界は、七重の石垣、七重のターラ樹の並木、鈴のついた網によって飾られ、あまねくめぐらされ、きらびやかで美しく麗しく見える。それらは、金・銀・瑠璃・水晶の四種の宝石からできている。シャーリプトラよ、かの仏国土(西方浄土)は、このような、仏国土特有のみごとな光景で立派に飾られているのだ。」(浄土三部経・阿弥陀経)と浄土とその様相が説かれています。

宗祖の御妙判にも「悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思し食し合せて(松野殿御返事)」また「師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん」(観心本尊抄送状)と霊山浄土という名目で他界的浄土観が、門下への消息文にこれ以外にも沢山散見されます。さて、宗祖のこの浄土と阿弥陀経で説く所の浄土とは名称は同じですが、意味意義も同じ物でなんでしょうか、どうでしょうか?

もうひとつ、この浄土を主宰する阿弥陀如来ですが、法華経に「もし末法の世に、女人がこの経を聞きその教えの通りに修行すれば、命尽きてのち、阿弥陀仏の世界に行き、菩薩たちに囲まれ、蓮華の法座の上に生まれるだろう」(法華経 薬王菩薩本事品)と言う箇所があります。この阿弥陀仏の世界へ、とは西方浄土のこと他なりません。さて、この法華経で説く阿弥陀如来と阿弥陀経で説く阿弥陀如来とは、法華経と阿弥陀経の違いはあれ如来として同じかどうか?これも名称は同じですが、現されている意味や意義に於いてどうでしょうか?

法華経のサンスクリット語原文においては法華経の観世音菩薩普門品にも阿弥陀如来の存在について言及されています。また法華経化城品には釈尊と阿弥陀尊は前世で兄弟、共に二涅槃(小乗の阿羅漢位、大乗の無生忍位)二地(菩薩位の十地の二番目)に法華経を説くべしと書いてあります。これら法華経で説かれるところの阿弥陀如来も本門に来至し、霊鷲山に於いて虚空会の儀式に十方分身の仏の一人として等しく列席し、親しく釈尊の久遠開顕を仰いでいます。

ここまで書けば、察しの良い方であればこちらの意図は了解されるでありましょう。法華経は活の法門であります、「妙とは蘇生の義なり、蘇生と申すはよみがへる義なり」と妙の三義のひとつが御妙判(法華題目抄)にありますが、これらの浄土も阿弥陀如来も随宜から活かして名義を使うのであります。ちょっと古い言葉で言えば換骨奪胎ですね。骨を取り換え、胎(こぶくろ)を取ってわが物として使う意で、名は同じでも古い義を取り替えて蘇らせたわけです。お分かりでしょうか、国立戒壇という言葉も名称は同じでも、活かす意図が違ったわけですね。

本宗信徒であり、戦後に国立戒壇義を唱えた戸田城聖氏はその国立戒壇名称定義について、こう語っています

天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。こうすることによって、はじめて国立の戒壇ができるのである(戸田城聖先生講演集)」と田中智学や浅井の言う戦前国体的建立観ではなく、戦後憲法の精神に沿った民衆立的意味付けをしていたことが了解できますね。文字は同じでも意義と使用意図が違えば自ずと価値も異なってきます。浅井氏の言う前時代的な国立戒壇義と歴代上人が使われた意義・意図は名詞は同じでも、意図は全く違うものであることが理解できると思います。

つづく

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